4 大正時代の産業・経済
大正時代は佐世保が「都市」に変身をとげた時代といえる。ただ他の都市との違いは基幹産業が海軍だったことである。産業、経済の面からその変貌(へんぼう)を見てみよう。
明治中頃に佐世保に進出し事業を発展させた田中丸商店は、大正7年(1918)デパート設立を計画し、大正9年栄町に鉄筋4階の「デパート田中丸呉服店(ごふくてん)」(後に玉屋)が開業した。今までにない大ビルの出現は市民を驚かせ、連日買物や見物の客で大変賑(にぎ)わった。
これに危機感を抱いたのが中心街の中小商店であった。デパートの出現に刺激(しげき)され、大正10年佐世保商業団という組織を発足させ、共同での大売出しや行事の宣伝等をしたが、会費納入が不成績で成功しなかった。その間にも玉屋は実績をあげ続け、商店側を慌(あわ)てさせた。
玉屋に対抗できる強い組織として商業会議所設立の声が高まり、大正14年佐世保商業会議所が設立された。議員の選挙も行われ、有権者は918名であった。
当時市内には、十八銀行、佐世保銀行など11の銀行の本店、支店があり、激しい競争を繰り広げていたが、外来商人達の要求には応じきれない面があった。商人達は結束し、自分達の銀行を設立した。
大正7年川副綱隆(かわぞえつなたか)らが中心となって、佐世保の糸山銀行を買収し、資本金200万円(佐世保銀行は50万円)で設立した佐世保商業銀行がそれである。
大正時代の海軍工廠の拡充と好景気により、佐世保の民間工業も発達しつつあった。飲食物や水産加工を中心に、工場数、従業員数はふえていったが、明治のころと同様に、基幹産業となるものはなかった。一方、万津(よろず)、湊(みなと)、塩浜町等には海運業、水産業と市場が集中し活気に溢(あふ)れていた。
大戦景気で石炭は高値が続いたが、市は要塞地帯であったので炭鉱の開坑は出来ず、市外の柚木、大野、山口、日宇の各村や北松の炭鉱は石炭ブームに湧いていた。
大正7年市内の農家戸数は7年間で倍増した。人口急増で野菜等がよくうれるし、米価の上昇もあって、儲(もう)かる農業になったからである。一方、軍の施設や市内の会社、工場に働く兼業農家が約4倍と急増している。
軍港の拡充は湾内漁業を圧迫したが、周辺漁村の漁獲高は大消費地佐世保の人口増で年々ふえ続けていった。
このように佐世保市の拡大と交通の発展は周辺の農漁 村の生産、生活にも影響を与え変貌(へんぼう)を促した。