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4 人々のくらし

 平成11年8月に洞穴・古代分布調査が実施され、相浦の牽牛崎(けんぎゅうざき)で洞穴が発見された。確かに人の生活の痕跡が残っており、調査を進めたところ、平安時代から鎌倉時代の人たちが住んでいたと思われる。長期的に生活した痕跡は判らなかったが、出土した土師器などから中世の人々も住んでいたと考えられる。
 平安時代の人々の生活をした跡を示す文献は、ほとんど残っていない。ただ市内の各地に残っている遺跡や遺物から推察することによって、当時の人々の暮らしについてふれてみたい。
 例えば縄文時代の草創期(そうそうき)を代表する泉福寺洞穴(せんぷくじどうけつ)の最上層部のT層には、平安時代のものと思われる土師器片が出土していた。確かに人の跡は見られるものの多量の骨を焼いた粉跡が認められ、埋葬の用途に使われていたとも考えられる。
 また竹辺の河岸段丘上の遺物の散布地を見ると、平安末期と思われる中国、朝鮮半島製の青白磁(せいはくじ)と土師器が、かなり採集されており、当時の人々の生活を推測することができる。
 中央で権力を持つ藤原氏の政治は、地方の人たちには程遠い存在であった。
 21歳以上の男には庸(よう)や調(ちょう)を都まで納めに行かねばならず、また雑徭(ぞうよう)などの労役があり、当時の人たちの生活は、大変な苦しさを伴ったものであったと思われる。律令制度の細則を定めた延喜式(えんぎしき)(927)の肥前国の項には、調・庸の品目などが記録されている。
 調・庸には綿、麻、絹などの布・織物類とアワビやナマコなど、17歳以上の男は海産物や手工品、油、水産加工品などを生産し、納める義務を負わされていた。佐世保と限定してあるわけではないが、肥前国のことであり、内容としては大差はないと思われる。
 その外に当時から使われていた器(うつわ)に、滑石(かっせき)製の容器がある。滑石の原産地は西彼杵半島の大瀬戸町のホゲット遺跡に代表されるが、滑石製の石鍋が佐世保市内の各地で見出されている。滑石は保温性があり、縄文時代の前期や中期の土器にも多量に含まれている。温じゃく石といわれ、近年までお年寄りの体を温める用途に使われていた。その保温性を生かして、日常の炊飯食器として粥(かゆ)などを食べていたと思われる。滑石は当時の流通経済を紐解(ひもと)く鍵になるかも知れない。 

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平安時代の農民たちの働く姿(想像画)

写真4 滑石の出土遺跡(ホゲット遺跡)
資料 延喜式による肥前国の庸・調の内容(927年)
(原始・古代の長崎県より)